静かに暮れてゆく街並を、母さんと連れだってゆっくりゆっくり歩いてゆく、そのうしろ姿が、今でも私の目の奥から離れない。長い看病は、この二人の姿が見たかったからだ。一度はあきらめたオペを、もう一度奮起して、出来る限りのところまで攻めたのは、攻めることができたのは、決して私ひとりの力ではなく、スタッフ皆の力だけではなく、どんな辛い人生もあきらめずに生きてきた飼い主の思いがあったからであろう。ふつふつと胸の底から沸いてくるせめてもの光が、私の腕を後押ししてくれたのだろう。さまざまな出来事、いろいろな事件、山も谷も必死に乗りこえてきたこの家族の道のりは誰も知らない。明るく振る舞う彼女の姿からは、その乗り越えた道の険しさは誰にもわからない。
リックを連れて森加津子が来院したのは、春の訪れを感じ始めた3月初旬、よく晴れた日のこと。食欲が少しづつ落ちてきて、この2日間はほとんど食べていないのに、おなかが張っているようだ、という主訴。13歳になった柴犬のリックは、寡黙で物静かに仕事一筋に生きてきた職人といったところだろうか。腕利きの靴職人で、長い厳しい下積みと時代に翻弄された半生がどんなに大変だったかなど、何一つ人に話す事などなく、毎日毎日を淡々と、そして目の前の仕事を丁寧に、丹念にこなしてゆく。決して有名ではないけれど、何年も履きこなした一足をつぶしてしまい、もう一度彼の作った靴が履きたいと遠く遠方から訪ねてくる、そんな気質の職人。必要のない事以外ほとんど話さないが、信望はとても厚い。そんな気風の犬。決して若くはない証拠に、加津子さんのご自慢だった茶色の披毛は、顔から耳にかけ白いものが目立つようになっていた。
しかし、もっとはっきりするのは背中から腰にかけての披毛で、バサバサと幾つかが束になり、若い頃のビロードのような光を放つ毛並みは見る影もなかった。そして背骨のラインが浮き出て、特に腰のあたりは骨盤の形がわかる程だ。いわゆる慢性の消耗性疾患(様々な原因により、長い間におよぶ栄養障害により衰弱しゆく病態の総称)の典型で、腫瘍性疾患などでよくみらる。そのくせ、主訴であるおなかは、やや大きく、下っ腹が張った様子。それでも、やはりそこは寡黙な職人、散歩も普通に行き、排便排尿も普通で、特に痛がったりする様子もないという。
診察台に乗せ、診察が始まる。顔を両手でなで付け、頭から耳の辺りを触りながら、「リック、どうしたあ?、元気ないのかあ」の一声は、院長・修平のお決まりの儀式。寡黙ながらも、本当に従順で気のやさしい職人は、顔の表情は何一つ変えないが、しっぽをゆっくり右へ左へ1往復。これがせめてもの愛想。でも、これで十分。検温し、修平の手が体中をくまなく触っている。頭、首、前肢、胸、背中、後肢、体表のリンパ節、そして口の中。歯石がたまってちょっと臭う口腔以外は、特に異常はない。続いて聴診。肺の音、心臓の音、特に問題なし。そこで、問題のおなかの触診となる。下から右手をゆっくり腹部の正中にあて、少し押してみる。んっ? 周りからはわかるかわからないか、修平はほんの少しだけ首をかしげ、さらに右手に神経を集中させる。表情が少しだけ変わるが、声は出さない。今度は両脇から両手の親指で押してみる。やはり、・・・ある。肋骨のすぐ下、いわゆる上腹部の中央に表面のゴツゴツした異様なしこり。尋常な大きさではない。「森さん、何かあるよ、おなか。ちょっと詳しい検査するからね」
「えっ?」
その一言を発し、彼女の表情が曇る。
森加津子、近くでショットバーを開いている、何しろ明るく、元気なママ。しゃがれ声でよく笑う姿が似合うのだけど、様々な怒濤を乗り越えてきた苦労人。今は独身。成人し、独り立ちした息子・圭一が一人。まだ圭一が幼かった頃にご主人が病死し、その後を女手ひとつで育ててきた加津子にとって、圭一が小学生の時に近くのおっちゃんから貰い受けたリックは、いろんな形で二人を支えてきたかけがえのない家族だ。いたずら好きで通した幼児期は、圭一の唯一の兄弟だったし、散歩が大好きでどこへでも引っ張って歩いた青年期は、圭一にとっては悩みを打ち明けられる親友で、加津子にとっては思春期を向かえ何も話さなくなった圭一から取って代わった相談相手だった。引っ越し、転職、一大発起で向かえた今の店の開店と、めまぐるしく変わる生活を、時には泣き、時には笑い、共に過ごして来た。そうやって向かえた従順で寡黙な壮齢期は、二人にとって、まるで父親のような存在になった。そのリックが、院長の顔が曇る程の病気とは。検査のための待ち時間が、ひどくひどく長く感じられる。何かとは、一体なんなのだろう。悪い物なのか。どうか、何でもないようにと、願わずにはいられない。不安ばかりが募る。検査を終え、若い獣医に抱えられてリックが加津子のもとへ戻る。その姿に思わず涙が出そうになる。わずか10分程度だが、ひどくひどく長く感じられた。
しばらくして、修平の声が響く。
「森さん、第一診察室へ」
シャーカステンの灯に照らされた修平の横顔。入ってきた彼女に視線を向ける事もなく、掛けられた2枚のX線写真を食い入るように見つめている。空気が重い。陽気を取り戻した春が、凍り付くような寒さに感じられるのは加津子だけだろうか。沈黙が続く。全体的に動いていた視点が、やがて一点に集中したまま動かない。2秒、3秒、5秒、10秒。そして重い空気が次の一言で、切り裂かれる。突きつけられた現実は、予想以上に過酷なものだった。
「森さん」
X線写真から視線を外し、はじめて加津子の目をみつめ、修平はゆっくりと続ける。
「腹腔内腫瘍が疑われます。それも、かなり大きい。ソフトボール位の大きさで、おそらく肝臓腫瘍。もしかすると、脾臓の腫瘍かもしれない」
いつもより、トーンを落とし、ゆっくりと話すその口調は、いままでの修平の話し方ではない。その話し方が、さらに重みを増す。「血液検査の方では、若干の貧血がみられますが、白血球数、血小板、腎機能、肝機能、コレステロール、血糖値など、ひととおり調べてみましたが、特に問題ないでしょう。心臓も雑音は聞こえません。少し痩せて来ているようですが、まだ散歩も行けてるようですから、まだ元気もあるでしょう。この後、エコー検査により肝臓か脾臓か、またはそれ以外のものなのか調べてみますが、かなり大きくなっています。治すためには、手術が必要と思います。」
『肝臓腫瘍』、その、耳を疑ってしまうような冒頭のひとことに意識が遠のき、続いて発せられた『手術』の単語の後は、思考回路が完全に止まってしまった。院長がその後何を話していたのか、リックはそばでどうしていたのか、エコーの検査結果はどうだったのか、いや確かにもう一度診察室へリックは入って行った。その背中は思い出せる。だけど、診察代は払って来たのだろうか、どうやって家に帰ったのだろうか、何も覚えていない。2ヵ月ぶりに実家へ帰った圭一に声をかけられて、我に返った時はすでに夜の8時を過ぎていた。暗くなった事にも気が付かず、部屋の電気もつけず、何時間もこうしていたことになる。しびれた左手には、クシャクシャになったエコーの写真が堅く握りしめられていた。
「母さん、どうしたの。お店は休み?」
「圭一、リックが・・・」